salon de émo.

元ボーダー女子流、感情(emotion)との上手な付き合い方。

機能不全家族の両親と絶縁して恨みの感情が消えた

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ポジティブレゲエバイブス女子えりりーです。
 
両親共に重度のメンタルヘルスの病気を患っており、不仲だけど共依存。
 
生活費を入れない父親に専業主婦をやめない母親という困窮していながら、祖父からの援助で何とか生活する家庭に育ちました。
 
私が境界性パーソナリティ障害を発症したのはこの家庭に長女として生まれ育ったという要因が大きく、ずっとそんな育て方をした両親を恨んでいましたが、昨年ついに絶縁しました。
 
 この記事では筆者えりりーが境界性パーソナリティ障害を発症する原因となった両親との間での問題、そして何故両親のことを恨む気持ちを手放せたのかを書きます。
 
 
※注意※
この話はすべて筆者えりりーの体験、主観によるものであり、筆者の家族の話なので特定の職業や病気を否定する目的は一切ありません。
家庭環境が複雑である方はこちらの記事を読むことで、つらい経験を思い出し苦しくなる可能性があります。
此処から先の閲覧は自己責任でお願いいたします。
  
 

境界性パーソナリティ障害を育てあげた家庭環境

とにかく胸糞が悪い話になるので、「両親との絶縁を経て消えた恨みという感情」まではさらっと流すことをオススメします。
 
私は両親が32歳の時に生まれ、大阪で育ちました。
 
 

家族構成

父 ー 自営業。バブル時代に趣味の世界でのモータースポーツショップを立ち上げ当時成功を収めるも、バブル崩壊後により経営困難に。しかし仕事を変えることは無く、家庭に生活費を入れられなくなろうとも自営業のみ続ける。自律神経失調症とだけ診断が下っている自己愛性パーソナリティ障害。
 
母 ー 専業主婦。片付けられない、物を捨てられない人。幼少期を過ごした賃貸マンションでも、引っ越した分譲マンションでも母親の荷物で足の踏み場もない通称「ゴミ部屋」を作る。家事全般がそもそも苦手なようで料理も得意ではなかった。病院にはかかっていないが心を病んでいる。
 
妹 ー 私の7つ下に生まれた歳の離れた妹。姉のえりりーと性格は似ているが、心療内科にかかるような問題を起こすこともなく順調に進学し高校も卒業した。何でも我慢してしまう性格。えりりーが親元を離れた後に両親共からの依存対象となっている。
 
母方の祖母 ー 健在。明るく優しい性格で、えりりーの父親に対して基本的に否定的。
 
母方の祖父 ー えりりーが12歳のときに他界。自身で立ち上げた会社の会長だった。娘孫を溺愛しており、えりりーの両親の離婚を望んでいた。状況を見兼ねて他界する前に、分譲マンションを一括で購入してえりりー達の居場所を作る。
 
父方の祖母 ー 健在。自律神経失調症と診断を受けているが、言動は昔から統合失調症患者そのもの。えりりーの母親のことが大嫌い。夫である祖父のことも大嫌いでよく恨みつらみを嫁孫に聞かせる。
 
父方の祖父 ー えりりーが23歳のときに他界。社労士として定年後も働き続けていた。昭和の亭主関白そのままの人。
 
 

父親の異常な自己愛 

私の物心がついた頃には既に両親は不仲で、度々大きな夫婦喧嘩をしていました。
 
いつも父親が怒り狂って物を投げ、家具も母親も突き飛ばし、家の中は荒れ果ててしまいます。
 
 
一番大変だったのは、12歳の頃に母方の祖父がマンションを購入してくれるまで賃貸マンションに家族4人で住んでいたのですが、喧嘩になると「ここは俺が家賃を払っているんだから出て行け」と母、私、妹をセットで追い出されてたこと。
 
父方の祖父母の家がすぐ近くだったので、道中にあった100円ローソンでおにぎりを買い、身を寄せていました。
 
(私はこの思い出から100円ローソンのおにぎりが嫌い。)
 
 
父親が最初から最後まで怒るキッカケとなっていたのは
 
「自分の意に反することを言われた」
 
でした。
 
 
しかし私は特に否定や意に反することを言わずとも、なにか気に食わないことがあると唐突にサンドバックにされることが。
 
未だに何故か全くわからないのは、
 
14歳のときに私が原因不明のめまいと耳鳴りで病院へ行った帰りに病院の駐車場でボコボコに殴られ、女子トイレに逃げ込んでも追いかけてきて殴られ続けた挙げ句、靴を脱がし靴だけ車に持ち込んで私をおいて走り去ろうとされたこと。(母親が止めました。)
 
 
その後は16歳の頃に学校へいかない私に怒り、目を蹴り飛ばされ階段から突き落とされそうになり、目から血を流したまま逃亡。
 
私はそのまま母方の祖母宅で1年近く過ごしましたが、逃げ出した数日後には奪っていた私の財布などを持って謝りに現れ、私も面倒なので大丈夫って顔して仲直りという形に。
 
そこでまた否定、拒否などしたら何をされるかわかったものじゃないので、我慢するのが身を護る一番の方法でした。
 
 
他にも父親はキレると信号無視、速度制限違反をして車をかっ飛ばし一人デス・レースをするのですが、私達家族ももちろん道連れ。
 
よく生きてたなと思います。
 
 

父親の異常な監視

  1. ・インターネットの閲覧履歴データは毎日チェック
  2. ・携帯のメールは勝手に父親のアドレスへ転送されるように設定(私だけでなく母親のメールも)
  3. ・お風呂に入っている間の携帯チェック
 
 
めちゃくちゃ気持ち悪いですね。
 
しかし私達家族の中では当たり前の日常でした。
 
 

母親のとても愛情を感じることは出来ない言動と過保護 

いちばん古い記憶は、幼稚園のころに夕方まで同じマンションの子たちとマンション内で遊んでいて少し帰りが遅くなった時の記憶。
 
少し遅れて帰ると、母親は怒り狂ってその日は晴れているのに長靴と一緒に裸足の私を締め出しました。
 
 
中学生の頃に見せられた私が赤ん坊だったころのビデオの中では、まだ1歳程度の私が取ろうとした人形をわざと後ろに動かして頭からコケさせた父親を母親がビデオを撮りながら笑っていたり、ブランコから落ちた私をひとしきり笑った後に助けにいく母親が映っていたり。
 
 
ここまで愛情を一切感じられませんが、小学生の頃は5年生まで放課後に友達と遊ぶことを禁止されていました。
 
母親はそのことを「心配で仕方なかった」と話します。
 
 
私が文武両道成績優秀であることを誇らしく思っていたという母親ですが、私がテストで99点を取ると「1点なんで取れなかったの?」「100点じゃないからな。」と言い、通知表がオール5という状態を3年間維持していても「後は落ちるしかないから。」と笑っていた為、褒められた記憶は皆無。
 
 
先述した父親にボコボコに殴られていたとき、車で走り去る父親に抗議したり、私が血を流し逃げた後から「やりすぎだ」と抗議したりはしましたが、基本的に止めに入ることはなく。
 
 
などなど、依存体質で過保護なのは本当なのですがちぐはぐだったのでした。
 
打って変わって私が大人になってからは、ひたすら依存するように。
 
絶縁を告げた際には、最後まで「幸せになって欲しくて」と本気で言っていたので悪意は一切存在していなかったようです。
 
 

境界性パーソナリティ障害を発症したきっかけは母親の一言だった

父親が母親の悪口を私に聞かせ、母親も父親の悪口を私に聞かせ、板挟み状態で潤滑剤の役割を取っていた私。
 
物心ついた頃からとにかく両親が喧嘩にならないようにずっと必死でした。
 
 
しかし小学5年生のある日、母親から何の前触れも無く
 
「親父と喧嘩するのはあんたのせい」
 
と言い放たれたのです。
 
 
意味がわからない
 
何があったのかもわからない
 
今まで私が両親のためを思って気を遣って生きてきたのはなんだったのか
 
 
もう頭がぐちゃぐちゃになり、11歳の私はそんな知識も無いのに
 
学習机にあったカッターで初めてリストカットをしました。
 
 
これが私が初めて、境界性パーソナリティ障害の症状を発症したキッカケです。
 
 

境界性パーソナリティ障害には母親からの愛情が大きく関わっている

これは医学的に言われていることなのですが、母親との愛情関係が境界性パーソナリティ障害を発症することに大きな関係があります。
 
母親からの愛情の不足
 
母親から褒められた、認められた体験の不足
 
過保護、過干渉によるストレス
 
といったものが、境界性パーソナリティ障害のベースとなります。
 
 
 
 
これほどに胸糞の悪い父親が居れば、母親の愛情も引き立つものだと想像するのですが真逆であったことで、より強力な境界性パーソナリティ障害のベースが作られました。
 
母親からの愛情が大きく関係すると言われていますが、読まれた方がおそらく感じた通り、父親の存在だけでも十分に悪影響は大きい家庭でした。
 
唯一救おうと考えてくれた母方の祖父を亡くしてからは、一切の救いのない家庭だったと思います。
 
これが筆者えりりーが育った家庭です。
 
 

両親との絶縁を経て消えた恨みという感情

私は今、都内でひとり暮らしをしていますが、住所も連絡先も知っているのは元夫だけ。
 
両親は住所どころか、私が東京のどこに住んでいるのかも、変更した電話番号もメールアドレスもLINEアカウントも知りません。
 
(妹とは仲がよく、家にも招いていますが住所までは知りません)
 
 
上京するタイミングで、絶縁を宣告して直接の連絡手段を絶ったからです。
 
 

「そりゃ病気になるわ」と言われて安心した話

絶縁を伝えたときに元夫が同席し、当事者同士の泥沼な話にならないようにはからってくれたおかげでハッキリと「絶縁の意思」を明確に出来ました。
 
その際に上記の話を、両親を親として認められず、私の今後の人生において邪魔な存在にしかならないと判断するに至った原因として話したのですが、全てを聞き、最終的に両親を帰した元夫は
 
「そりゃ病気になるわ!」
 
と怒って言い放ちました。
 
両親の話をしてきましたし、当然両親と何度も顔を合わせてきた上で改めてです。
 
正直ショックでした。
 
 
わかってはいたんですけど、いざ詳細を知った他人が怒るほどの環境だったのかと思うと。
 
私の知っている家庭はこれだけなのに、他人が聞くと腹が立つほど酷いものなのかと。
 
 
でもそれと同時に安心もしたんです。
 
やっぱりおかしかったんだ、病気になって仕方なかった、私のせいじゃなかったんだ。
 
そう感じました。
 
 
自分になにか落ち度があったから両親があんな状態で、私も病気になったんじゃないか
  
とか考えることもありましたから、救われました
 
 

絶縁した今、両親を一切恨んでいない理由

絶縁するまでは両親に感謝するなんてことはなく、ひたすら恨みの感情だけをもっていました。
 
でも絶縁をした今、一切の恨む気持ちはありません。
 
それどころか、全くなんの感情もなく過ごしています。
 
あんなに恨んでいたのに何故か。
 
 
今後の私の新しい人生に悪影響を与えることのない、関係しない存在となったからです。
 
 
私が絶縁したのは、過去の嫌いな自分から生まれ変わって新しい人生をスタートすると決めたタイミングでした。
 
このままでは新しい人生に悪影響を与えることしか無いと考えて。
 
絶縁したときの私は25歳、大人です。
 
大人になると自分の人生の責任は自分で取らないといけません
 
すべて自分の責任になるのに、人間を病気に追い込めるような、自分が病気になって苦労することになった土台を作った人達って必要でしょうか?
 
また何か悪影響を与えられても、責任なんて取ってもらえません
 
悪影響どころか害を与えられる可能性のある人との関係を継続する必要は私にはありませんでした。
 
もしこの先の人生で新しい男性と結婚することになったとしても、居た方が悪影響だと確信してしまえるほどだったのでその心配もしていません。
 
 
新しいまっさらの状態からのスタートを切るには、存在だけでなく、過去のしがらみとも絶縁しないと意味がありませんでした。
 
いつまでも過去のことを引きずっても、境界性パーソナリティ障害になってしまったことは変わりません。
 
やりようのない怒りを思い出したところで何も進まないどころか逆戻り。
 
親のせいにして「仕方ないんだ」と言っているのは結局のところ依存で、恨んでいては全く精神的に自立出来ません
 
精神的な自立こそが、境界性パーソナリティ障害の克服には不可欠です。
 
なにより私はもう、新しい人生のスタートを切って前に進んでいます。
 
家庭環境に苦しんでいた私、境界性パーソナリティ障害に悩んでいた私はもう過去の存在
 
なので両親を恨んでいた私も、過去の存在となったのでした。
 
 

親と絶縁したい人へ

悪影響を受ける親と絶縁したいとまで考えているのは、相当な問題に悩まされていることでしょう。
 
でも絶縁したあとの「こんなシチュエーションでは親が居ないと大変なのではないか」といった気持ちが1つでもあるなら、あまり絶縁をオススメすることは出来ません。
 
もしその気持ちを解消出来ないまま絶縁して「やっぱり居た方がよかった」となってしまった時に
 
絶縁せざるを得ないような人間だった親
 
を再び恨むことになり、絶縁して開放された意味が無くなってしまいます。
 
絶縁する前よりも、本当にやりようのない怒りとなって苦しむことになります。
 
全ては自分の責任、絶縁してしまえば「親のせいで」と今後言うことはナシです。 
 
いや、自分にも必要ない。スッキリ過去のものとして流す。
 
と思えたなら、行動してみてもいいのではないでしょうか。
 
私が今、あんな両親のことを一切なにも思わずに幸せに過ごしているということが
 
家庭に苦しめられている人の背中を押すことが出来れば幸いです。